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松阪もめんの歴史

江戸時代、松阪には、「織物の神様」として信仰を集めたお宮があり、
京都西陣からも「衣服大祖」と月参するほど。

伊勢の大神宮にお供えする麻と絹を織るところで、正しくは「神麻続機殿(かんおみはたどの)」 「神服織機殿(かんはとりはたどの)」と言います。

今も松阪市の東部には、先述しました神服織機殿・神麻続機殿という神宮の工房があり、 毎年五月と十月の十四日に行われる神御衣祭(かんみそさい)にお供えする和妙(にぎたえ)=絹布、 荒妙(あらたえ)=麻布を、古式通り奉織しています。

伊勢木綿 写真

十五世紀、エジプトやインドを原産地とする木綿が日本に伝えられます。
暖かく丈夫な木綿は「天下の霊財」とまで讃えられ、それはまさに衣料革命を引き起こすことになりました。

良質な木綿栽培には、いくつかの条件があり、一つ目は気候が温暖なこと、二つ目は水はけの良い土地であること、 そして三つめは、肥料としてイワシを干した燐酸件の「干鰯(ホンカ)」が欠かせないことでした。 こうした条件を満たす地域が、伊勢湾岸と大阪湾岸だったのです。

松阪周辺は上物の木綿栽培の先進地として、二つの湾岸地帯と共に、江戸と上方の大消費地へと衣料革命を進めていきました。 そしてここに、古代の紡織技術と木綿が結びつき、松阪もめんを生み出す素地が整うことになったのです。

松阪は、利休七哲の筆頭茶人とうたわれた文武兼備の武将“蒲生氏郷” によって、 1588(天正16)年に城下町として産声をあげました。
氏郷は、商業の発展を促す[楽市]制度や、角屋一族[海運業者]を招くなどの画期的な領国政策をとり、 松阪商人の礎をしっかりと築いていきました。

伊勢木綿 単糸 写真

粋を誇りとした江戸の庶民にとって、倹約令でお仕着せだった着物の中で、 最大限のオシャレは“松阪縞(マツサカジマ)” 。

粋とは、飾りたてず派手に目立たぬこと。 少し離れると地味な無地に見え、しかしよく見れば繊細なすっきりとした縦縞が走る松阪もめんは、 まさに粋の感覚そのものでした。

当時の江戸の人口約100万人に対し、なんと年間に50数万反もの売上げがあったことも頷けます。 歌舞伎役者が縞の着物を着ることを、未だに「マツサカを着る」と言うそうです。
それほどまでに縞といえば松阪もめんが代表的だったわけです。

豊田式自動織機 写真